No.1562
そろそろ、四十九日か…
じいちゃんが亡くなったときに、四十九日というのは本当に、良くできた仕組みだなと感心した。
ちょうど年末で、とにかく忙しくて。
ついでにほぼ週末で、通夜だのなんだのは土日で終わっていて。
そこから七日に一度、五週間、坊主が読経しにきて、最後の週はわしらが行った。たぶん。
悲しい時やつらい時は、忙しくしておけばよい、と書いたのは、たぶんカーネギー。
人が来るから支度して、とか、出かける支度して、とか、仕事おわらねーとか、なんか慌ただしく日々が過ぎて。
四十九日めなど、むしろ皆、ほっとしていたんじゃないかと思いだしたりする。
七日法要が忙しさを作り出し、人のために何かをすることで気を紛らわし「その人のいない日常」に強制的に慣らされてゆく。
そして法要の終わった開放感は、葬儀の諸々の慌ただしさを、思い出に変えてしまう。
昔から続く風習は、道理に叶っていると感じることも多い。
いつ頃に定着した風習かも知らない法要の諸々は、何も考えられずに打ちひしがることを許さず、喪った人を忘れることを許さず、過去への執着を懐かしさに書き換える、合理的な行いだったのかと感心したことを、また、思い出している。
じいちゃんが亡くなったときに、四十九日というのは本当に、良くできた仕組みだなと感心した。
ちょうど年末で、とにかく忙しくて。
ついでにほぼ週末で、通夜だのなんだのは土日で終わっていて。
そこから七日に一度、五週間、坊主が読経しにきて、最後の週はわしらが行った。たぶん。
悲しい時やつらい時は、忙しくしておけばよい、と書いたのは、たぶんカーネギー。
人が来るから支度して、とか、出かける支度して、とか、仕事おわらねーとか、なんか慌ただしく日々が過ぎて。
四十九日めなど、むしろ皆、ほっとしていたんじゃないかと思いだしたりする。
七日法要が忙しさを作り出し、人のために何かをすることで気を紛らわし「その人のいない日常」に強制的に慣らされてゆく。
そして法要の終わった開放感は、葬儀の諸々の慌ただしさを、思い出に変えてしまう。
昔から続く風習は、道理に叶っていると感じることも多い。
いつ頃に定着した風習かも知らない法要の諸々は、何も考えられずに打ちひしがることを許さず、喪った人を忘れることを許さず、過去への執着を懐かしさに書き換える、合理的な行いだったのかと感心したことを、また、思い出している。