No.3056, No.3055, No.3054, No.3053, No.3052, No.3051, No.3050[7件]
建屋の方角は、やはり当たっていて
御室は必ず東が入口になっていたので、神官と大祝、神使が上座に座っていた
#鹿の国
御室は必ず東が入口になっていたので、神官と大祝、神使が上座に座っていた
#鹿の国
やれるようになってきてはいると、思うてるんだけど
まだまだだな…
https://blog.tinect.jp/?p=16095
まだまだだな…
https://blog.tinect.jp/?p=16095
前に、姉上は自分と同じめんどくさいタイプらしいという話を聞いて「だからまきむらさんの姉上の評価が始終、可愛いだったんな」と返したらめっさ渋い反応が返ってきたのを思い出した
白山神社の菊理姫の信仰は、それまで狩猟メインで生きていたのに建御名方命が飛び込んできたせいで稲作の強制に巻き込まれた、ていう読み方をするところなんかな…
稲作の神というより、母神だったんちゃうか
それにしても、鹿掻っ捌いた血から1日で稲が生えたって伝承、キリストの奇跡みたいな成り立ちかもしれんよな
#鹿の国
稲作の神というより、母神だったんちゃうか
それにしても、鹿掻っ捌いた血から1日で稲が生えたって伝承、キリストの奇跡みたいな成り立ちかもしれんよな
#鹿の国
答は諏訪にある気がする!! てゆーてたの、本当にあった。
雪が溶けたら、資料館巡りたいね。
#鹿の国
雪が溶けたら、資料館巡りたいね。
#鹿の国
チロンヌプカムイイオマンテ、見ておいてよかった。
再現された御室神事に、だいぶ類似点があって、時代の古さが共通なんだろうと考えることができたし、建屋の方角とか、儀式の意味とか、考えながら見ることができた
#鹿の国
再現された御室神事に、だいぶ類似点があって、時代の古さが共通なんだろうと考えることができたし、建屋の方角とか、儀式の意味とか、考えながら見ることができた
#鹿の国
ずっと考えていて、作品としてやはり削るシーンだったというところに行き当たった。
子どものその後が続編で描かれたら、あのエピソードは必要な伏線になる。その記憶の共有が、洛軍たちとの共通体験として生きてくるだろうから。
彼らの縄張りの中で、彼らの意図を汲み取る子になる。
解体の混乱の中で、どんな立ち位置になっていくかは、原作がどういう時間の切り取り方をしているかわからない以上、物語の中での必要性は判断できない。
ただ、自分の肌感覚として「物語の展開上、絶対に必要なシーンだったか」となった時、多くの戦闘シーンがCMでしか使われずにカットされていたであろうことが予想される上、上映時間120分越えだったことも合わせると「撮ってあったとしても、削る」エピソードだ、という判断しかできなかった。
あの尺と密度の中で、彼らの視界にあっただけの家族のエピソードを織り込む余裕はない。
「あの時代の再現」ということを考えると、あそこでボコボコにされたオッサンとて、冷蔵庫の某であったし、世間の概ねの人たちが、誰かにとっての冷蔵庫の某になり得る世界だった。
それは父から伝え聞く現実でもそうだし、顧みられないことがあの頃の日常だった。
であれば、顧みるエピソードを挟むことは「現代の感情の挿入」になり、回顧録的な劇作の蛇足になる可能性はなかったか。
感情として、入れたいエピソードであることは理解できる。とてもよくわかる。
けれども、その安心まで不条理に蹴散らす世界の、不条理の煮凝りを描く映画の中では、小さな安心を描くことは、より絶望を引き立てるための演出において、ではないかと考えてしまった。
あそこで、母ごと死ぬことがなかったことが、当人の眼の前での公開処刑の現実よりもいくぶん救われた事実であり、それをなし得ることができたのが、あの映画における希望だったんじゃなかろうか。
#九龍城寨:圍城
子どものその後が続編で描かれたら、あのエピソードは必要な伏線になる。その記憶の共有が、洛軍たちとの共通体験として生きてくるだろうから。
彼らの縄張りの中で、彼らの意図を汲み取る子になる。
解体の混乱の中で、どんな立ち位置になっていくかは、原作がどういう時間の切り取り方をしているかわからない以上、物語の中での必要性は判断できない。
ただ、自分の肌感覚として「物語の展開上、絶対に必要なシーンだったか」となった時、多くの戦闘シーンがCMでしか使われずにカットされていたであろうことが予想される上、上映時間120分越えだったことも合わせると「撮ってあったとしても、削る」エピソードだ、という判断しかできなかった。
あの尺と密度の中で、彼らの視界にあっただけの家族のエピソードを織り込む余裕はない。
「あの時代の再現」ということを考えると、あそこでボコボコにされたオッサンとて、冷蔵庫の某であったし、世間の概ねの人たちが、誰かにとっての冷蔵庫の某になり得る世界だった。
それは父から伝え聞く現実でもそうだし、顧みられないことがあの頃の日常だった。
であれば、顧みるエピソードを挟むことは「現代の感情の挿入」になり、回顧録的な劇作の蛇足になる可能性はなかったか。
感情として、入れたいエピソードであることは理解できる。とてもよくわかる。
けれども、その安心まで不条理に蹴散らす世界の、不条理の煮凝りを描く映画の中では、小さな安心を描くことは、より絶望を引き立てるための演出において、ではないかと考えてしまった。
あそこで、母ごと死ぬことがなかったことが、当人の眼の前での公開処刑の現実よりもいくぶん救われた事実であり、それをなし得ることができたのが、あの映画における希望だったんじゃなかろうか。
#九龍城寨:圍城