逮捕部屋

百の三。

 待ち人は既に他へ行ってしまったというのに、合同訓練、合同研修、名目は多々あれど、新人は毎年やってくるからか、年に幾度かは訪れることが当たり前になっていた。一説によると志願しているとかかんとか。その真偽は定かでないが、何にしてもすでに職員と変わらぬ扱いを受けている元屋上の住人が研修中に話し始めた。
「もともと、山って言うのは信仰の対象で、女性の入山は明治維新まで概ね禁止されてたくらいっすから、そういうのって珍しくないっすよ。霊山とか、言ってるっすけど、別にそこだけが特別なわけじゃないっす。」
 研修中、作業中の沈黙を和らげるためにする話ではないだろうが、求められれば答える人だ。作業の手を止めて席を立ちかけた古株は、同僚に引きとめられて今にも泣き出しそうな面持ちだ。作業も手につかず、隙あらば逃げ出そうと身構えている。
「天に上るっていうじゃないっすか。あれは、本当なんっすよ。」
「巡査長は何かごらんになったんですか」
 誰かが尋ねた。
 丁寧な言葉ではあるけれど、その好奇心は隠し切れない。
「見たというか…」
 言いかけて、逃げ出しそうな美幸を見やる。
「作業、終わってからにしましょうか」
 その間に開放されてくれればいいのだけれど。
 そんな思いがあったかどうかはさておくとして、この日ほど一人を除いた全員の作業が速やかに完了した日はなかったのだ。
 作業を終わらせられなかった一人を除いて、研修用に解放されていた会議室の椅子は一箇所に集まった。
「えっと…」
 その一人が聞こえないように、か、椅子の向きを変えてしまったのを見やり、ため息を一つ。
「見た、というか…うーん…」
 言葉を濁したいのだろうが、好奇心に溢れた目に囲まれると、どうにもかなわない。その半円に組まれた円陣の中央に立たされて、東海林は言葉に詰まった。
「別に、盆とかじゃなくても、なんすけどね。こう、人が、歩いてるっすよ。」
 両手を丁度顔のあたりにやって、もやもやと動かして見せる。
「テントで、一人で、寝てると。この辺を、こう、誰かが、歩いていくっす。必ず、麓から、頂上の方へ向かって。」
「ここ?」
 若手の一人が、高い声で聞き返した。
 がたんっと何かを落とした音が響く。その音に驚いて何人かが身を竦ませたが、落とした本人がおそらくいちばん驚いていただろう。
「別に、怖く、ないっすよ。ただ、歩いてる、だけ、で。」
 わたわたと片付けようとする背中をみやりながら、果たして続けたものかと思案する。
「それ、やっとくっす。」
 声をかけられても、聞き入れる余裕はない。悲鳴を飲み込むのがせいいっぱいと、いうところか。
「それで?」
「それだけ、なんすけどね。」
「怖くないじゃないですかー」
「怖く、ないっすよ。」
 怖がらせるためにそこを歩いているわけではないっすから、と付け加える。
「ただ、時々、いるっすよ。話し相手を探してるというか、気付くと立ち止まってしまう人が。」
 へえ。
 ひときわ高く上がった歓声のような声に我慢しきれなくなったかばたばたと部屋を出て行ってしまった。
 これで、とりあえずの心配はなくなったか。
「それで」
 身を乗り出してきた新人達に、改めて向き直る。
「気付いたときだけっすけどね。気が済むまで、ほっとくっす」
 なんだぁという落胆の声が聞こえる中、
「何もできないならその方がいいっす。下手に答えると引きづられるっすよ。」
 はたしてその言葉の意味を何人が正しくとらえたというのか。
「じゃあ。巡査長はそういうことになったことがあるんですか?」
「ないっすよ。ないから、無事でここにいるっす」
 その真意がその場で語られることはなかったけれど。
「あーそりゃ、相手が悪いってー」
 久しぶりに会った以前の同居人は、さも当然と言うように頷いた。
 懐かしさを噛み締めるとかそういったことは一切なく、以前とかわらずソファからテーブルの上のクッションに脚を投げ出し、通販チャンネルをカタログ片手に眺めている。
「そーゆー言い方しなくても」
「んぢゃ、聞きたい?」
「聞きたくないっ」
 怒鳴り返した美幸に、まぁまあと手を振って見せて、
「ありゃ、怖いと思ってないから怖くないってだけだからね。怖いって。あたしもびびったもん。」
 その夏実の一言に美幸は息を飲む。
 今にも後ずさりそうなおももちに、だいじょぶだいじょぶと同じように手を振って見せる。
「助け出してんのは生きた人間ばっかりじゃないからねー。免疫ついてんのよ、あれで。」
 言われればそのとおりなのだが、そう簡単に割り切ってしまえる話でもない。
「あの調子でちょっといさせてくれってひょこひょこ来てさ」
「うん」
「こないだ見つけた死体の子が離れてくんないからかくまってくれとか素で言われてみ。ついでに毎晩窓の外にいるのね。怖いよー。物いいたげにさー、じっとこっち見られてたりすると。あれで平気でよく寝れるもんだと思ったもんね」
 音を立てて、美幸がソファごと後ずさった。
「きかなくてよかったってことよ」
「なんでそゆこと平気で言えるかなーっ」
 涙声で喚きたてるのをはいはいと聞き流し、
「なんかあたし強いらしくてさ。そばにいると近寄ってこんのだと。だからそばにいるから大丈夫だよ」
 慰めるつもりだったろうが
「明日帰る人に言われたくないです。」
 目に涙を溜めてにらまれてしまっては謝るしかない。
「悪かったってー」
 ふてくされてしまった美幸を慰めるのに、貴重な休日の大半を費やすハメになった。
 
「子供の頃、水に落ちたっすけどね。」
 前日に引き続き、巡査長の怖い話をなんとか聞きだそうという若手が数人。
 根負けしたか、とうとう、こんな話をと語りはじめた。
「誰かに、助けられたっすよ」
「誰に?」
 いちばん右端の女の子。
「わかんないっすけど。着物のすそを掴んだのは覚えてるっす」
「着物?」
 左端の男の子。いや、子と呼ぶには幾分年端とってはいるが。
「よく、水に落ちたっすけど。落ちたんじゃないなぁ、こう、溺れさせられていた、…というか」
「え?」
「川とか入ると、足が動かなくなるっすよ。こう、膝から下がぐーっと重くなって。」
「…え?」
 そこにいた全員が言葉を失ったけれど、東海林はまったく様子を変えずに言葉を接いでいく。
「で、あるとき気付いたんすけど、こう、足首から下に絡んだような跡が残ってたっす」
 全員が身を引いても、まるで気付かないように話しつづける。
「さすがに、おかしいと思って」
「その前に気付いて下さいっ」
「そうっすねぇ」
 にこやかに他人事のように相槌を打つ彼の様子に全員がただならぬ気配を感じた。
「でも、その、助けられてからは、足を引かれることはあっても引き込まれることはなくなったっす」
 言葉なく、彼らは後悔していた。
「あとで、思い出したっすけど。そのちょっと前に、俺、知らない子と仲良くなってて」
 それ以上、聞かない方がいい気はしていたけれど。
「一緒に行こうって約束は、本当にそうしたい相手にしかしちゃいけないっすよ」
 血が引いてその場から動けなくなっていた彼らを残しそう締めくくると彼はその場を離れていった。


<2003/02/24 00:00:51>