ピアノレッスン 

 アパートの壁にでもはりついているのか、不自然に大きく蝉の声が響いていた。
 扇風機の起こすわずかな風がうだるような暑さをささやかなれど和らげている。
「ピアノレッスンっていう映画があるんです。」
 両手を突いて、うつぶせの体を起こす。気温の所為なのか、体温の所為なのか。その汗ばんだ体に張り付いたシャツを指で引いて空気を入れてやる。
「はぁ」
 言葉の続きを待っていることのわかる、右下がりののんびりとした返事。
「ニュージーランドの映画で、ずっと前にみたからよく覚えてないんだけど」
「ニュージーランドですか。」
「はい。」
 頷いて、もう一度体を横たえる。暑さは堪えているはずなのだろうが、黙って先ほどと同じように抱きとめると肩を叩くことで先の言葉を促した。
「多分、実業家かなにかの奥さんだったんですけど。荷物を運んでもらったまま、ピアノをとられちゃうんです」
「はぁ」
 狭い台所に続くガラス戸は開いたままになっていた。
 台所の窓はあいていたけれど、自然の風が動いている気配はない。
「奥さんはどうしてもピアノが返してほしくて、何度も交渉しにいくんです。でも、その人はピアノを弾かせてあげる代わりに体を要求するんです」
 相槌が途切れたことに気付き顔を上げると、返答に困って眉を寄せていた。首をかしげてそれを問う。
「いくつの時に見たんですか」
「高校は出てたと思います。」
「…はぁ」
 落胆を含むであろうため息を答えと取って言葉を継ぐ。
「はじめは、下着を見せろっていうんです」
「はぁ」
「次はドレスを脱がせて、その次は下着を脱がせて、その次にきたときには素肌に触れて。それを、ずっとやるんです。」
 気付けばその声は表情を失っていた。
 淡々と続くあらすじよりも、その声のトーンが体を冷たくする。
「美幸さん?」
 ふり払うように名前を呼んでみたけれど、台所の開け放したガラス窓の向こうに目を向けたまま気付いていないかのように言葉を継いでいく。
「でも、いつか奥さんはその人のためにピアノを弾きに行くようになるんです。」
 ようやく顔を上げた彼女は上目遣いに自分を見上げ、
「あとは、何を望みますか?」
 付け加えるように呟いた。
 これ以上何を望むというわけもなく、それを知った上での問いであろうこともわからないわけではない。
「僕はね、敏郎というんです」
 きょとんとしているからあやすように首をくすぐってやる。子猫のするように目を細め肩に額を擦りつけた。
「としろーさん」
「はい」
「としろーさん」
「はい」
 かつん、と音を立てて扇風機が止まった。かけたまま忘れていたタイマーがその動きを止めたらしい。
 …あっつーい。
 体を起こして着ていたシャツを脱いで窓を見る。
「変わんないですね。」
「風、ないですからね。」
「風鈴つけますか」
 窓の外を見つめたままの呟きにつられるように窓の外を見る。
「いーですねぇ」
 その軒先に用意されるであろう物を想像して表情も緩んだ。
「気休めにしかなりませんけど」
 それを打ち崩す容赦ない言葉に苦笑いしながら体を起こし、足の上に座ったまま窓の外を見ている人と同じように外を見やった。
「お風呂、入りましょうか。水になっているから、丁度いい。」
「ついでに洗っちゃいましょう」
「はい」
 先に立ち上がって部屋を出て行った彼女を箪笥からバスタオルを出してゆっくりと追う。
「それから、どうなるんですか?」
 桶に張った水を肩からかぶってみるもののその冷たさに首を竦める背中に声をかける。
 気付いて、見上げると横にどいて場所を空けた。
「ピアノは海に沈んでしまうんです」
「それで」
「それで、おしまい。何もかも。」
 引き換えるにするものは何もなかった。
 海に沈んでゆくピアノのように、終焉を告げるものもない。
 おそらくその彼が最後に手に入れたであろうものもすでに手の中にあるはずで。
 終焉のみを残したままそのシーンだけが切り取られたような錯覚。
 けれどもそれをただ認めてしまうこともできずにいる。

 蝉の声は止んでいた。

<03/02/23>
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